烈車戦隊トッキュウジャー(の仕組み)

3ヶ月前に終了したテレビ番組を今更ながら取り上げます。ネタバレあり。

Gレコは玖足手帖さんがリアルタイムでがっつりやられているし、他の方の円盤解析作業も進むと思う一方、トッキュウジャーはゆきまろさんのリアルタイム感想に、こちらからちょい付け足しが出来るかなあ、という目論見です。とは言いつつ、ホビー雑誌等は殆ど読んでおりませんので、既にファン周知事項であればご了承ください。

スーパー戦隊シリーズは言うまでもなく、玩具販売を目的としたプログラムピクチャーなので、ヒーローが1年間戦い続ける動機としての倒すべき相手も、設定をしっかり行わないと新兵器(新玩具)も展開できないという枷があります。

烈車戦隊トッキュウジャーも、シリーズとしての要件を満たしつつ、マンネリ化を避ける試みも取り込んで、というルーチンが行われてます。

過去、きちんと観た戦隊があまり無い自分が今回、完走に近い視聴が出来た理由に、過去のシリーズに無かった匂いを感じたからです。

1つ目は、敵の設定です。シャドーラインという敵組織は、人の心から生まれる負の感情や不幸を「闇」と称してエネルギーにしているように描写されています。侵略者や妖怪と比べて抽象的で、ミヒャエル・エンデの『モモ』の時間貯蓄銀行に似ていると思いました…って今Wikipediaで確認したら、『モモ』の小説冒頭に『きらきら星』が使われていたんですね今更スマン(『きらきら星』は、トッキュウジャー本編で重要な役割に利用されている)。

2つ目に、過去の小林靖子脚本にも通じるのですが、「忘れる/忘れられること、思い出すこと」が物語の転換に用いられていることです。ライダー系にありがちな「開始時に伏せられていた秘密(伏線)が物語の流れを作るという、大人のお友達を喜ばす仕組み」は抑えられていたように思われます。

過去の記憶が無い主人公達が中盤で記憶を取り戻し、故郷へ戻るための戦いを続ける一方、その戦いが長引くと、故郷で別の時間が進行し、彼らが「居なかったこと」に時間が変わってしまう危険性が示唆され、葛藤します。

そして終盤、敵を退けることに成功したものの、元の姿に戻れない主人公達は、故郷を立ち去ろうとするですが、そこに主人公達の家族が現れ、主人公達を受け入れることで、主人公達は元の姿に戻ることができました。

なんやご都合主義かい!みたいなツッコミも当然あるのですが、これはトーベ・ヤンソン『たのしいムーミン一家』の飛行おにの帽子やな、と気付くと、あ…と思う訳です(化け物の姿になったムーミンに、ムーミンママが…)。

3つ目は、列車に乗って旅(と戦い)を続けるというロードムービー的な心地良さです。主人公達が駅弁食ったり、遊んだり、椅子で居眠りしたりする日常描写は、夢のような鉄道旅ですね。

そんな感じの緩いスーパー戦隊でしたので、児童文学とか好きな方にもお楽しみ頂けるのではないか、というエントリーです。